【人生は何度でも…いくつからでも挑戦できる🔥】
カーネル・サンダースと言えば、ケンタッキー‼️
日本でも有名な方ですよね(≧∇≦)💓でも……彼が生涯で40回以上の転職と、何度も経営難の挫折から立ち上がったという話はあまり知らないのでは⁉️
カーネル・サンダースの生き方に、きっとあなたも勇気づけられます💓
<目次>
1.10歳で働き始める苦難な人生
2.40回以上の転職で出逢った運命の職業
3.悲劇は繰り返される……
4.65歳で倒れても不屈の闘志で立ち上がる
5.何歳からでも挑戦できる‼️
本題に入る前に、お知らせです(≧∇≦)🔥
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▼10歳で働き始める苦難な人生
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今、人生でもし苦難・困難に直面している方がいたら、きっとカーネル・サンダースの生き方は勇気になると思います!
今や「ケンタッキーの前にいるおじいちゃん」として有名なカーネル・サンダースの人生は、今の私たちからは考えられないような壮絶なものでした。
実は「カーネル・サンダース」は後から呼ばれた名前であり、本名はハーランド・デーヴィッド・サンダースといいます。
6歳でお父さんを亡くして家庭が貧しかったため、働き始めたのは10歳です。
農場で働きながら学校に行きましたが、14歳で学校を退学します。
そこからは電車の運転手として働いたり、軍隊で1年間働いたり、鉄道のボイラー、保険の外交員、商工会議所の事務員、タイヤの営業など……転職回数は40回以上です。
40回以上の転職を繰り返した後に、ついにカーネルは「これだ!」と思う職業に巡り会います。
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▼40回以上の転職で出逢った運命の職業
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彼にとっての運命の職業、それはガソリンスタンドの経営でした。
知り合いに「ガソリンスタンドの経営をやってみないか」と言われて、初めてここで経営者として独立します。
今までの転職や営業経験を活かして、非常に独創的な経営をしました。
当時、一般的にはガソリンの給油料金だけで儲けるガソリンスタンドが多かった中、サービス料金の発生する窓ガラスの清掃・ラジエーターの水やタイヤの空気圧の点検など、多岐にわたるサービスを展開しました。
今、ガソリンスタンドは給油以外のサービスで利益を生み出すのは当たり前ですが、その基礎を作ったのはカーネル・サンダースではないかと言われています。
ガソリンスタンドの経営はとてもうまくいっていたのですが、1929年、ニューヨーク株式市場の大暴落という世界大恐慌が起きてしまいました。
これが、彼を苦しめます。
なぜなら、農家さんにガソリンを後払いで売っていたからです。
農家さんの農業器具のガソリンを先に提供して、後からお金を払ってもらう仕組みでした。
しかし、恐慌の際中に干ばつまで起きてしまい、農家が壊滅状態となりました。
当然、後払いの約束だったお金も回収できません。
ついに、カーネルのガソリンスタンドも倒産してしまいます。
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▼悲劇は繰り返される……
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ただ、サービス精神が旺盛だったカーネルの経営は高い評価を受けていたため、大手のガソリンスタンドのシェル石油からガソリンスタンドの経営を持ちかけられました。
カーネルは、それを喜んで引き受けます。
さらに、もっとサービス精神を発揮したいと考えて、ガソリンスタンドの敷地内にカフェをオープンしました。
このカフェの料理はカーネル自身が作り、料理が非常に評判となりました。
ガソリンスタンドの敷地内では足りずに、170席以上の大きなカフェを作り販売することになります。
カーネル・サンダースのガソリンスタンドとカフェレストランは絶大な評価を受けて、ケンタッキー州から「ケンタッキー・カーネル」という名前を得ます。
カーネルが45歳の時です。
フライドチキンの製法を弛まぬ努力で研究し続けて、現在のケンタッキーフライドチキンにつながる絶妙なスパイスとハーブの調合を発見しました。
そしてその絶妙に調合したチキンを最新式の圧力釜で調理して、非常に美味しい商品を生み出しました。
しかし、悲劇は繰り返されます……
なんと、レストランが火事で全焼してしまいました。
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▼65歳で倒れても不屈の闘志で立ち上がる
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カーネルはモーテル(車庫付きの簡易な宿泊所)を持っていたため、それを売却して、銀行から追加融資を受けます。
そしてガソリンスタンドの営業は止めて、レストランの営業だけを再開しました。
カーネル51歳、再々スタートです。
ところが、このレストランがオープンした国道に迂回路ができてしまい、店舗前の交通量が激減して、赤字になってお店が倒産。
65歳でお店が潰れてしまいます。
65歳と言えば日本では定年退職の歳ですが、カーネルには老後暮らしていくだけのお金がありません。
ここで追い詰められたサンダースの、不屈の闘志に火が付きました。
「金はない。店もない。
しかし試行錯誤の末に完成させたフライドチキンのレシピが俺にはある‼️」
そう言って、このレシピを沢山のレストランに売りに行くという、世界で初めてのフランチャイズビジネスに踏み切ります。
自分の車に圧力釜とフライドチキンを積んで、全国のレストランを回りました。
車の中で寝泊まりをしながら、とにかく飛び込み営業をし続けました。
お店の裏口で働いている人にフライドチキンを食べて頂き、
「どうかフライドチキンを取り扱って頂けないでしょうか」
と頭を下げ続けました。
「カーネル・サンダースは1,000店舗全てに断られて、1,001店舗目でようやく契約を結んだ」
という話もあるくらい、とにかく営業し続けたのです。
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▼何歳からでも挑戦できる‼️
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地道な営業活動により、少しずつフライドチキンのお店がオープンしていきました。
74歳でフランチャイズを売却する時には、600店舗。
そして、その後も広報担当者としてカーネル・サンダースが全世界を巡り歩き、90歳で亡くなる時には、ケンタッキーフライドチキンはなんと6,000店舗以上オープンしていました。
さあ、改めて振り返ると……
カーネル・サンダースが今のフライドチキンの販売に全力で取り組み始めた年齢は65歳。
「成功した」と言われたのは74歳。
人生の集大成として挑戦したケンタッキーフライドの大成功を収めるのに9年の歳月が掛かりました。
今、苦難・困難に立ち向かわれている方、どうでしょうか。
まだまだ私たちは、道半ばです。
いくらでもやり直しができます。
いくつからでもチャレンジできます。
カーネル・サンダースは、そんな事を私たちの心に刻んでくれているような気がします。
大変かもしれないですが、がんばりましょう!
65歳からでも、いつからでも‼️
僕たちはチャレンジできる💕
それでは今日という最高の一日に、、、
せーのっ!いいねー❤️
ばいばい💕
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農家 直接契約 個人 在 朱學恒的阿宅萬事通事務所 Youtube 的最佳貼文
本單位規劃拍攝製作過程長達四年,拍攝地點橫跨東京都、山口縣、台北、兵庫縣、巴黎的獺祭紀錄片,在大家都不能出國的時候,在這時候公開讓大家看看吧!
櫻井博志會長:【Dassai這個名字,寫成水獺祭典的「獺祭」兩個字。同時也跟中國的二十四節氣的第一個節氣有關聯。至於為什麼用這個名字,是因為我們家的地名。山口縣岩國市、周東町獺越,有川「獺」穿「越」這兩個字。獺這個漢字對日本人來說非常難寫。我身為這裡出身的釀酒人,就總想用上這個字當品牌。再加上(中國)有「獺祭魚」這個說法,就決定以這個命名了。另一個是因為正岡子規是日本文學上非常有地位的改革者、詩人。他的屋號就是用獺祭屋;更讓我想用這個名字。】
以日本知名的國宴酒著稱的獺祭,並非如同大眾所想像的一樣,是一個位在大城市中的超級酒造。事實上,旭酒造並非位在東京或大阪等大城市中,其實是位在山口縣岩國市山中的酒造。從最接近的位在周南市的新幹線德山站出發,若要到達他們在山中的總部,開車至少要四十分鐘以上。說它是一個崛起於偏鄉的企業也絕對不過分。
對於這個位在山口縣的酒造,也許大部分人的印象都還停留在獺祭這個品牌上,但事實上,櫻井一家經營酒造的時間,其實遠比媒體批露的時間要來得早。他們的先祖早在明治年間就已經開始投身這一行業。
但事實上,對於外表看來慈祥和藹的櫻井博志會長來說,繼承旭酒造和開發出獺祭這個品牌並非如同傳統的接班一樣順遂,完全是一路披荊斬棘走來的戰鬥歷程。一開始最大的挑戰,就是櫻井博志年輕時雖然待在家族企業旭酒造中,但個性剛烈的他跟父親起了非常大的衝突
櫻井博志會長:【我跟父親的關係不是那麼融洽,兩個人衝撞得很厲害。那時候,我經營了一家石材經銷商。在這石材經銷商的經驗裡,我學到最重要的事,就是品質愈好的東西愈好賣,生意才會蒸蒸日上。那時的日本酒造業界,好像幾乎沒有這種認知;廣宣打得很厲害,業務也跑得很勤,覺得好像靠品質以外的努力就賣得動。我其實不以為然。】
但等到櫻井博志的父親驟逝,他必須回來正式接班時,所面對的卻是持續衰退的清酒市場,和經營波動起伏的旭酒造。原先旭酒造的代表品牌【旭富士】在整個岩國市只能排到第四名,業績也下滑到全盛時期的三分之一。
櫻井博志面對這重重的危機,在退此一步即無死所的困境下,開始進行了全面性的改革。首先,旭酒造為了穩定產量和導入整體數據化科學化的製程概念,由冬季釀造改變成四季釀造,也就是一年四季都可以釀造生產出貨的概念。利用溫度控制、先進的自動系統來釀酒,讓產量更能夠配合市場調變,也更能夠穩定的出貨,這等於讓旭酒造的釀酒流程擺脫了手工作業的印象,變成可以量產,即時出貨,且品質穩定的產品。
另外一個重要的改革則是改變了以前委託專業的杜氏釀酒的概念,完全由公司的職員來釀酒。
二號藏工廠長三浦史也:【既有的常識裡,好酒是不可能大量生產的。但是旭酒造把大量生產好酒這件事化為可能,成功實現,並且能夠進一步大量行銷海外,讓那些覺得獺祭好喝的消費者輕鬆就能買到獺祭。能夠把好東西量產,這也是我們在生產上不可或缺的優勢。】
歷經奮鬥,多年之後,旭酒造不只在東京站穩了腳步,更開設了實體商店,成為東京這個時尚都會的一員。位在銀座最繁華五丁目的獺祭Store就正是旭酒造打贏了一場又一場戰鬥的結果。
在東京,旭酒造剛站穩腳步之後,就立刻面對必須要推出更高品質產品的挑戰。初期櫻井博志推出的是精米步合50%和精米步合45%的純米大吟釀。清酒是由米所釀造而成,米的表層有蛋白質和脂肪,在釀造時會造成不純的雜味,留下來的米心【稱為心白】,澱粉質越純,釀造的品質也越高。精米步合50%以下就可以稱為純米大吟釀,但光是磨米就必須花到四十五小時,獺祭二割三分的標準則是驚人的精米步合23%,也就是磨除酒米77%的外層,而所花的磨米時間必須花到整整七天,一百六十八個小時。而獺祭二割三分的第一次海外訂單,是西元兩千年的元月初榨,由旭酒造的社員親自護送通關,目的地則是一月三號的中華民國總統府。
櫻井博志會長:【最喜歡的……!與其說喜歡,我會說我最看重的獺祭精磨二割三分這一款。怎麼說呢,這應該是我付出最多心血的一款酒吧。在二割三分當中,我們付出了所有的技術、甚至夢想、尊嚴這些,把這些東西都賭上了,所以說我非常看重二割三分。】
親身來到旭酒造的釀酒區,你會聞到一種與其他酒造都不一樣單一而純粹的水梨香味【亦有一說是哈密瓜的清甜】。這是因為旭酒造只專注於釀造純米大吟釀以上等級的清酒,對櫻井博志會長來說,這就是一種玉不琢不成器的磨練。
櫻井博志會長:【這種香氣,就是您提到這種類似水梨的香氣,算是吟釀酒特有的香氣;也的確是因為精米步合的關係,透過更低度的精米步合才能產生這樣的香氣。我們在酒槽內投入比一般酒造更大量的酵母,而酵母在非常低溫的環境下,比一般酒造低得多的溫度下,進行長期發酵。然後也正因為在已經精米的情況下,除了葡萄糖之外,酵母攝取不到其他任何養分。所以酵母會在飢餓乾涸的狀態下,在嚴寒中、低溫,而且嚴峻的競爭環境下存活下來。在這麼惡劣的環境下,酵母不單是成長,甚至產生了代謝異常,所以才產生了這樣的香氣。另外就是我們只釀純米大吟釀,跟其他酒造的香氣明顯不一樣,所以你才會在我們家聞得到這麼純淨的好味道。】
一路拚搏奮鬥到今日,雖然清酒的市場在日本四十年間衰退到只剩三分之一,但旭酒造比起當年櫻井博志接班時搖搖欲墜瀕臨破產的狀況,光是業績就逆勢成長了一百倍。甚至因為獺祭的成功而讓全日本的山田錦酒米栽種成長超過六倍,但偏偏獺祭與傳統概念中的使用在地米釀酒完全不同,他們的酒米來源來自於日本各地,但就是沒有山口縣。因為當初連續三年,當旭酒造想要採購山田錦時,山口縣的經濟農業協同聯合組合會找盡各種理由拒絕,連旭酒造想要自己栽種山田錦,經濟連也拒絕提供穀種。走投無路之下,旭酒造才開始設法跟全日本各地的農民契約耕種山田錦。
山田錦是一種心白較多,非常適合釀酒的稻米,但也因為這樣稻穗的重量較重,容易倒伏,耕種也需要更多的技巧,不是熟悉種植酒米的農家很難快速上手。旭酒造想到的方法非常符合他們不斷突破傳統限制的精神:他們找上了科技公司富士通。
富士通株式会社秋彩事業部加納正裕:【比較大的挑戰有兩點:第一個,我們完全不知道會做出來什麼樣的成績。為什麼這樣說,是因為到目前為止以我們的實際成績來說,確實有過食用米的相關經驗,但酒米這個領域我們沒碰過,不知道能做到什麼程度。】
【秋彩系統會把生產者的農作、農家生產的數據,以及感應器所偵測而來的數據一起匯入整理。重點是讓那些老經驗的、栽培技術高超的資深農民,如何把他們的經驗轉換成數據保留下來,讓新進者能夠共享這些經驗、讓新手也能運用這些資源讓生產更容易上手,我們在往這個方向努力。】
在技術上不停尋求突破的旭酒造,在二零一七年十二月十日,又破天荒的在讀賣新聞上刊登了全版的廣告。但廣告的目的不是賣酒,而是告知全日本的消費者不要買貴了!廣告上面寫著獺祭真正的定價,跟明列出六百三十家直接合作的店家,希望大家直接用合理的價格跟這些店家購買。
櫻井博志會長:【之所以要刊這個廣告,是因為那時候獺祭非常熱門,我的營業數字也非常漂亮。但相對的,我的產能跟不上。產能跟不上的話,那些旁門左道的店家就有了哄抬價格的動作。比如跟來路不明的地方拿貨,然後轉手賣個三倍價錢,這種事時有耳聞。你要賣多貴我管不著,可是這些投機取巧的店家,根本沒有心好好照顧我的酒。不重視低溫保管,更不會冷藏,常溫的狀態下直接擺在架上、倉庫亂堆;這樣子亂搞,客人怎麼可能喝到高品質的獺祭!?對我們來說,這種行為不但讓客人喝不到我們真正想呈現的獺祭,而且也會對我們的營運產生殺傷力。就是這幾個點,讓我們決定刊登這個廣告。】
旭酒造也透過對山田錦的特A級產區,兵庫縣加東市的契約耕作,來鞏固高品質且老練的農家生產出來的山田錦酒米。加東市在多年前因為水質和有山有水的地勢以及黏土土質,被評斷為最適合生產山田錦酒米的地方。而在加東市的山中,除了有著耕種好米重要的水源,東條川的支流以及鴨川水庫之外,也有著十分清幽的南傳佛教聖地,念佛宗三寶山無量壽寺,每年重要祭典時,佛教之王堂都有數萬人聚集在此處參拜,也是當地民眾的信仰中心之一。
藤原健治 農民:【作為釀酒原料用的山田錦不同於其他食用的稻米,它的稻梗長得很高,在東北地區的氣候下容易傾倒。一般食用的稻米的稻梗比較短,有一點風吹不會傾倒。你看那邊的食用稻米和山田錦明顯不一樣吧。他們的種植方式和肥料使用量都不同。山田錦的種植很難,所以不是針對一般消費者的農產品。】
藤原健治 農民:【我現在種植稻米的面積是4丁5反(約20畝),每年的賣米所得是800萬日幣。我今年74歲,一般的上班族應該是已經退休的年紀了,他們是靠養老金生活,如果我以前去做公務員,我現在也有在領養老金可以領呀。種植稻米每年有800萬日幣的收入很好呀!當然和領高薪的上班族比可能比不了,但是我很知足了。】
旭酒造和獺祭這個品牌越挫越勇的精神,必須從他們一個又一個突破難關的紀錄中看出。平成三十年,發生了極為嚴重的西日本水災,位在山區的旭酒造雖然沒有承受直接的傷害,但持續的斷電卻對他們以0.1度C為標準管理的發酵過程造成了無法確認的影響。原先估計有超過九十萬瓶的純米大吟釀都因為發酵過程無法百分之百保證而不能掛上獺祭的品牌,必須報廢。
旭酒造株式会社 営業部長松藤 直也:【因為水災有部分製造設備受損,雖然超乎我們的預想供電等基礎設施很快恢復了運轉,但是由於水災造成停電酒廠內部分正處於發酵過程中的獺祭酒受到影響,無法以合格產品來銷售。正當我們陷入困擾不知道該如何對應時,很多熱心的人們伸出援手,其中就包括漫畫【島耕作】作者弘兼 憲史老師】
因為大水必須暫停釀造工作的旭酒造一公布要暫時停產,末端銷售網站甚至直接將獺祭零售價格上漲五倍,一場可見的屯積和價格飆升的風暴即將來臨。旭酒造一方面要面臨嚴重的損失,一方面又要面對市場上缺貨的嚴重危機。不過,反敗為勝的機會再度出現。
櫻井博志會長:【大概一個星期之後,慢慢在想,這批酒雖然已經不符合獺祭的的既定標準,好歹也還是純米大吟釀,是不是還能做點什麼努力!或者說再用個什麼別的品牌之類的;品質上我們覺得自然比不上獺祭,賣出去的話會違背我們對客人的承諾,所以在想是不是用個什麼其他形式來處理…】
【所以大概在災後第三周左右吧,我跟島耕作的原作者弘兼憲史老師聊到這個,我有這個想法,不知道老師怎麼看。他說要不我們就來個獺祭島耕作吧!有了老師的授權,整個案子很快就動起來了。】
不到一個月,旭酒造不但從天災中恢復,而且成功地化危機為轉機。每瓶售價1200日幣的獺祭島耕作每一瓶都捐出200日圓,共計一億三千萬日圓作為此次水災的捐款,六十五萬瓶一上市就被一掃而空。反而成功為獺祭這個品牌打出了更成功的公益形象。
就這樣,旭酒造從日本山口縣岩國市深山中一座搖搖欲墜的破落酒造,成長為各國元首手中的國宴酒,甚至逆勢成為日本酒的代表品牌,他們靠的並不是單純的幸運。而是一步一步,一戰一戰面對逆勢也絕不屈服的堅毅信念。未來的獺祭和旭酒造也將在父子二人的攜手之下,繼續往更高更遠的方向邁進吧。
櫻井博志會長:【一開始雖然不全然是這樣,但現在來說,日本酒對我而言,就是人生的全部了。】
櫻井一宏社長:【我父親擅長去挑戰各種新的嘗試,嘗試的開始很快,失敗時終止嘗試也是當機立斷。他通常設定幾種不同的方向,而且向著設定的方向邁進的信念非常堅定。現在的我和他相比,還有很大差距,我要更多的學習他這種風格。其實獺祭這只產品也正是在我父親的大膽快速的嘗試風格影響下經過多次的失敗和挫折後,才研發成功的產品。今後,我還要繼續堅持和模仿我父親的這種風範去嘗試更多的挑戰。在建立了這個信念的基礎上,將來我是否可以超越我父親不是我的理想目標,我在意的是如何讓獺祭變的更加美味。在追求目標的過程中,如果獺祭的品質和消費者的滿意度可以不斷提升,對我來說比起超越我的父親,能帶給消費者更多更大的快樂和享受是更有意義的結果。】