(失敗者回憶錄0827)
通俗文化的記憶
有讀友問我能不能多寫些戰後香港的事,如平日生活、物價、交通等等。
我不是寫香港歷史,也不是寫生活記事,只是寫自己記得並想記下來的事。說交通,五六十年代港島與九龍的交通都靠渡輪,我隨父親坐汽車渡輪來往港九也不知多少次了。海底隧道和地鐵,都是七十年代才有的,相信是六七左派暴動之後,港府施政理念有改變所致。原委以後再談。
物價也記不得許多了,但從報紙售價可以大體上反映當時的物價和市民生活狀況。報紙售價一毫(一角)大概維持到七十年代初。1963年我參與創辦的《伴侶》半月刊,每份五毫;1970年我創辦《七十年代》每份七毫。
一毫子一份的報紙,那時有幾十份,可見有很多人願意投資。每間茶樓門口都有一個大報攤。許多茶客買一份報紙去嘆茶,嘆一兩小時後,就在報攤補五分錢(一個斗零)去換另一份報紙帶走。
嘆報紙嘆的就是港聞、狗馬、副刊,副刊主要是追小說。因此,那個時代,副刊的小說寫手是報紙要爭奪的。副刊專欄大都是報紙老闆親自管。寫手們寫的,有偵探小說、社會言情小說,而其中,又以作家高雄在報紙寫的連載,最能反映當時的流行文化和社會思潮。高雄生於1918年,1981年去世,原名高德雄(或名高德熊),筆名有經紀拉、小生姓高、石狗公、史得等,六十年代為《明報》寫怪論用筆名三蘇,而廣為人所知。他開創了「三及第」文體,並開創以貼近時事的社會處境小說《經紀拉日記》和《石狗公自記》。在眾多為報紙寫連載的通俗作家中,高雄可說是代表人物。他寫作題材之廣、產量之多、語言風格之奇,可說無人出其右。很多市民每天閱報都為了追讀他的專欄,最多的時候,他在十多二十份報紙的副刊有連載專欄,每專欄一千字,每天寫近二萬字。每一個專欄的小說都有連續性,他的奇才是要交稿才寫,居然記得每一個專欄昨天寫到什麼情節而可以續下去。而且可以引起讀者追看。他寫稿速度極快,曾經形容是像「縫衣車」那樣,右手拿筆不動,左手將稿紙往上推,大約二十幾分鐘就「推」出一千字。比抄要快得多。1966年我辦《文藝伴侶》時,約過他寫連載,看過他的手稿,他字跡固然潦草,但字體大都是有古代草書所本的簡字,那時的排字工人都是辨字專家,高雄的字跡雖草但不難辨認。
另一位是著名流行曲《今宵多珍重》的作詞者馮鳳三,他是1950年從上海來港的南來文人,以前在上海小報撰文為生,來港後成為寫稿佬,他稱之為「爬格子動物」。他在《新生晚報》以馮衡的筆名寫極短(三百多字)色情小說「仕女圖」,用聊齋體的古文去寫,看不懂的人不會去看,看懂的就會津津有味,當時也吸引我去讀。他另一個寫隨筆的筆名是司明,論述、見解也獨特,尤其是可以看到真正南來的上海人的觀念。他也日寫萬字,通常早上寫稿,下午就親自一家家報館去送稿。副刊稿都是二日前交,於是他在送稿的同時也順帶校閱次日要刊登的文章。
另一個日寫萬言的奇人叫王季友,以宋玉的筆名寫歷史人物的小說。他是寫舊體詩詞的高手,擅長以粵語入詩。他父親是舊學專家,原名陳文統的新派武俠小說家梁羽生就師承他父親,而王季友又是韓中旋學寫舊體詩的師傅。王季友以酩酊兵丁的筆名在《新晚報》每日寫兩首粵語打油詩,緊貼時事,抵死啜核。我最記得1957年,當時結第三次婚、年方25歲人稱玉女的伊麗莎白泰來,與新婚富商米高·鐸來港,酩酊兵丁賦詩曰:「情場幾度起風波,玉女終歸變玉婆,待到美人遲暮日,能否傾倒後生哥?」,說「終歸」,也是事實,一時成為絕唱,玉女之名號也瞬即在媒體被玉婆代替了。
這幾個都是在金庸、倪匡之前就名聞一時的副刊寫手,而且也同時被左派報紙羅致。他們是不計左右,有稿費就寫。我當時以讀左報為主,所以對他們印象頗深。有些只跟右派報紙寫的副刊寫手,我知道他們的名字,但較少去讀。
當時的新聞界雖分左右,但中共在1950年已經敲定了對香港的政策是「長期打算,充分利用」,也就是為了中國的利益,願意讓英國長期在香港維持殖民統治。儘管中國大陸政治風波不絕,左派在香港的活動仍然以「團結大多數」和融入社會為主要方針。新聞之外,左派電影業和出版業,那時也盡可能融入香港社會。到六十年代中期,左派的新聞、電影、出版都較被香港市民接受,算是建立了一定的基礎,想不到1967年發生左派暴動,就自我毀滅了。(55)
圖1,網上找到一張五十年代西環的照片,散發著沉鬱的美。
圖2,六十年代初與堂兄李晨風一家合影,前坐右起李晨風、堂嫂李月清、陳琦(父親那時的妻子)、父親、我、李月清弟弟;後立者是李晨風五個子女:兆英、兆熊、兆安、兆燊、兆勳。
(《失敗者回憶錄》在網絡媒體「matters」從頭開始連載,網址:https://matters.news/@yeeleematter)
同時也有3部Youtube影片,追蹤數超過12萬的網紅超めてお,也在其Youtube影片中提到,#PS#プレステ#バカゲー 特殊作戦の構成要素である、ゲリラコマンドによる奇襲攻撃は、古くから見られてきた。ナポレオン戦争中の半島戦争では、フランス軍の侵攻にスペインやポルトガルの民兵が対抗し、「ゲリラ」の語源となった。また第二次世界大戦では、イギリス軍のブリティッシュ・コマンドスやドイツ国防軍のブ...
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韓三千1957 在 李怡 Facebook 的最佳解答
(失敗者回憶錄0825)
五六十年代的香港人
寫了許多個人成長、親屬關係,特別是與中國、與左傾思想有關的事,也許該講講香港了。
香港在中國近代史上有過重要角色:孫中山革命思想的起源,革命的醞釀,對中國歷次革命和抗日戰爭的支援,中國革命者、抗戰和戰後文化人,選擇作為避風港……。香港對中國的影響和作用很大。但是,作為香港普通市民,無論是土生土長,還是大陸移民,都並不關心中國的事。關心中國的,主要是部分知識人:從大陸來的學者,從事新聞出版業的人。一般市民會關心自己在大陸的親屬,但不會關心中國的政治和社會狀況。
1945年香港只有50萬人口,那時對大陸來港的移民沒有任何限制,內戰激烈的1948、49年,來港移民激增,1950年香港人口達220萬。那時,香港人把所有不講粵語的外省人,通稱為「上海佬」。上海佬把外省經營工商業的資金、管理、文化,帶來了香港,香港經濟開始了躍動。
1948年我來香港時,住九龍城,許多電影界人士都住那裡。從我家騎樓望出去,常見有人在劈木柴,那時香港還是燒柴時代。與我之前生活的上海比較,香港的硬件落後於上海。我記得1957年,香港萬宜大廈裝自動電樓梯,許多市民還好奇跑去看,但上海戰前的百貨公司就有電樓梯了。
來港的合法非法移民,在1950年後持續增加,大約每十年香港人口增加100萬人。大陸來港的人口,成為香港居民的主流。來港的移民與香港原居民一起,在政治平靜和法治穩定之下,過着中國人民幾千年來夢寐以求的安居樂業日子。港英提供的法律,使這裏的中國人能在基本上機會平等之下,得以各顯神通,從而創造出香港的經濟奇蹟。大陸的政治運動與社會主義均貧化對香港人沒有實在的衝擊,但領教過中共的統治強權,又看到英國對香港的統治沒有長遠計劃,因此使香港人在心理上一直存有過客心態,認為我們在香港的福氣,是「借來的地方、借來的時間」的非永久的福氣。香港是一個跳板,許多人總想着藉此跳出海外,遠離中國。
自古以來,中國人面對天災,就是逃荒;面對暴政和橫逆,就是逃亡。逃,是中國人主要的求生手段。忍無可忍的時候,中國人也極少會反抗,反抗者也極少有機會獲眾人響應,因為多數人從來就是「走為上著」。
那時的香港人享受著英國法律的保護,千方百計謀生和發展事業,但就遠離政治,既遠離中國的政治,也遠離香港的政治。港英時代市政局民選,但投票率極低。許多人都認為政治由英國人管就好,幾個華人領袖也只是做做樣子,大眾市民無謂枉自操心。五六十年代,香港警察不但貪污嚴重,分贓規則的嚴密程度有過於警察明訂的管理規則,市民也無怨言。英國統治者大概也覺得貪污是中國人的文化,就像採取「大清律例」容許納妾一樣,都聽之由之。在英國洋大人面前,香港華人是否低一等呢?也許是的,比如在公務員升遷上不如洋人。但有什麼關係?比諸在中國人當統治者的地方,許多人還是選擇逃來香港。
報紙是香港民情最真實的反映。在五六十年代,香港中文報紙數量之多,蔚為大觀。五十年代報紙售價一毫,絕大部分報紙的報頭,都以「中華民國」記年,若看到以公元紀年的,就是左報了。暢銷報紙的頭版都是港聞,極少用中國、台灣、國際新聞作頭版。那時有報壇中人概括報紙暢銷三條件:港聞不厭其詳,狗馬「生性」(狗經馬經的貼士準),副刊「滋陰補腎」(各連載小說要有點鹽花,但又不過分)。
港聞最吸引市民眼球,那時沒有電視,一場醫生強姦女病人的官司,各報港聞全版詳細報導,讀者看得津津有味。頭版定大標題的編輯是搶手的人才。最經典的是報壇名人韓中旋,在1961年雅麗珊郡主訪港時為《明報》起的大題:「打炮廿一響,送御妹過海」,帶廣東俗語的「淫詞」,把老板金庸嚇到去華民政務司署請罪,並即時辭退老韓。各報副刊多刊登一個個方塊的連載小說,寫手都是有才識、文筆生動、頭腦靈活又生活多姿多彩的作家,其中高雄、馮鳳三、王季友等都日寫萬字以上。他們寫稿純然為了賺稿費,不留底,不剪報,交稿就算。但實際上大都寫得很好,應有留存價值,真是可惜了。
香港報紙的面貌,正是反映了那個時代香港人的普遍心態,就是在英國法律的保護下謀生,香港話就是「搵食」。但能夠在法律保障下、無需擔憂政治災禍地「搵食」,就是百姓所求的安居樂業。不過香港人和港英政府的這種但求無災無難的心態,在1967年左派暴動後就改變了。(54)
圖1,1948年剛到香港時,與父親和姐姐。
圖2,1959年與麗儀。
(《失敗者回憶錄》在網絡媒體「matters」從頭開始連載,網址:https://matters.news/@yeeleematter)
韓三千1957 在 李怡 Facebook 的精選貼文
(失敗者回憶錄0818)
歸處何方
在我父輩的親屬中,交往較多的就是五叔李剛了。名叫李剛的人很多,五叔不是那個2010年以「我爸是李剛」的特權,在交通肇事逃逸案中所指的李剛,也不是曾任香港中聯辦副主任、其後因被指「涉嫌嚴重違紀」而被免職的李剛。五叔原名李存溢,1925年出生,15歲那年從香港奔赴延安參加中共革命。在延安進入魯迅文學藝術院主修大提琴,後來成為作曲家和指揮家,49年後在北京參加建立國家級的歌劇舞劇院,擔任行政領導工作,經歷所有的政治運動,包括受到殘酷鬥爭、虐待的文革。文革後擔任文化部藝術局局長,多次帶藝術團體到香港和外國,在文化部12年後退休。
1972年文革期間,他被打為「黑幫」在幹校勞動,我獲邀到北京參加國慶,我提出想見五叔的要求,於是當局把他從邊遠調回北京見面。1980年中國改革開放後,五叔多次來港,我們見面頗多。1997年他退休後,經我聯繫,在香港出版了一本回憶錄《歸處何方》。2006年我到北京在他家留連幾天。2007年1月五叔在北京病逝。
在他寫的回憶錄中,講到1943年在延安的「搶救運動」,他認為這場運動是由中央社會部長康生發起的。運動使不少熱血青年一夜之間成了「國民黨特務」,而他的三姐、即我的三姑姐李慧蓮被關押一年多失去自由,被輪番拷問,最後不得不被迫承認自己是「特務」,運動高潮過後,與弟弟重見,二人抱頭痛哭。不久,三姑姐就病倒了,一年後離世,死時不足25歲。
從中共建政後,就不斷以運動治國來看,把「搶救運動」推到康生頭上,可能是五叔「為尊者諱」而已。他的回憶錄接著就談到了1949年後不斷發動的「階級鬥爭」運動。大致上說,1957年反右運動之後,所有的黨外知識人就鴉雀無聲了;1959年彭德懷上書毛澤東指出大躍進的問題和弊病,被毛發起「反右傾運動」批鬥彭德懷,牽連大批人,由此而黨內也鴉雀無聲了;到了文革在全民掀起互相揭發互相鬥爭的運動,也就使全國人民都鴉雀無聲了。五叔在回憶錄中指出,歷次運動對知識分子、文學家藝術家衝擊最大的,除了文革,要算反右派鬥爭。他說他作為歌劇舞劇院的領導之一,深感未能保護無辜的藝術家而不安。他特別提到五十年代自美回國的歌唱家張權,在反右中受到的傷害。他沒有仔細講這位歌唱家的遭遇,但提到她劃為右派後,被下放多年,晚年回到北京,住房問題也一直不能解決。她1993年去世,遺願是要在北京天主教堂做追思彌撒,並葬在天主教墓地。
前文談到的林秉寧,董建義,都是籍籍無名的右派分子,而鼎鼎大名的右派知識人當中,我直接認識並且作過訪談的,有三個人:電影劇本《苦戀》的作者白樺,1956年發表「干預生活」的作品的劉賓雁,和香港《文匯報》創辦人徐鑄成。上世紀八十年代跟這三人所作的長篇訪談,使我對中共國的認識,有很大的提升。
白樺在《苦戀》中寫一個歸國畫家凌晨光在中國的悲慘遭遇,他在厄運連連之後,還反對女兒隨男友出國,於是他女兒問他:「您苦苦地戀著這個國家,但是這個國家愛您嗎?」凌晨光無言以對。白樺原名陳佑華,1930年出生,1947年即17歲就參加了解放軍,成為軍中作家,1958年被打成右派,開除了軍籍。1964年重回軍隊。白樺被打成右派的原因,是他15歲就左傾,17歲就參軍,自認為出身「純潔」,不同於來自舊體制的人,他有資格真誠地、不會被人懷疑地說話。白樺在1979年獲平反後,仍然揭露政治生活中問題的初心仍然不變,1979年發表《苦戀》,1981受到批判,成為文革後第一個被批判的作家,批判矛頭直指他劇本中「這個國家愛你嗎」這句話。我訪問他時,他仍然認為他的遭遇只是因為中共的政治生活處於不正常狀態,若正常就不會遇到這些事。但實際上他的遭遇,是在專權體制下正常不過的事。
跟劉和徐訪談的啟示,後文再講。
五叔和三姑姐李慧蓮1943年回歸延安,1950年代我的同級同學和其後許多香港工人回歸祖國參加建設,五叔講到的張權從美國回歸,哈佛醫學博士董建義的回歸,白樺筆下的畫家凌晨光的回歸,還有千千萬萬我們不知道的回歸,他們都是一個個具體的人,不是一堆數字,開始時或者都有一段蜜月期,隨後的遭遇是不同程度的大同小異。1997年香港的回歸,不僅是土地的回歸,而且是幾百萬香港市民向共產黨領導的祖國的回歸,是歷史上最大規模的一次回歸。24年的變遷,現在和未來的變化,前人的殷鑑正如五叔回憶錄的書名所示:歸處何方。(51)
圖1,1972年訪京,與五叔五嬸和他們的女兒在他任職的中國歌劇舞劇院門前。
圖2,1987年12月白樺訪港,後立者是香港影人韓培珠。
(《失敗者回憶錄》在網絡媒體「matters」從頭開始連載,網址:https://matters.news/@yeeleematter)
韓三千1957 在 超めてお Youtube 的精選貼文
#PS#プレステ#バカゲー
特殊作戦の構成要素である、ゲリラコマンドによる奇襲攻撃は、古くから見られてきた。ナポレオン戦争中の半島戦争では、フランス軍の侵攻にスペインやポルトガルの民兵が対抗し、「ゲリラ」の語源となった。また第二次世界大戦では、イギリス軍のブリティッシュ・コマンドスやドイツ国防軍のブランデンブルク部隊など、敵勢力の後方地域においてコマンド部隊による奇襲攻撃などが展開された[3]。
冷戦期には革命闘争の一環としての不正規戦争が多発し、ベトナム戦争に介入したアメリカ軍でもこれへの対応を余儀なくされたことから、特殊作戦部隊の整備が進むことになった。しかし陸海空軍の主流の将校は特殊作戦への理解が乏しく、特殊部隊を異端視する向きが強く、特に他軍種との統合作戦には困難が伴った[3]。一方、東側諸国では、大戦中のパルチザンの経験をふまえて、不正規戦争への介入の必要もあり、大規模な特殊部隊が整備されていた。朝鮮人民軍は特に特殊部隊を重視しており、韓国国防白書2008年度版によると、過去2年間で6万人の増員をし、約18万人の特殊部隊を保有しているとされている[4][5]。
このような軍隊の特殊作戦部隊とは別に、1960年代後半より、アメリカ合衆国の警察では、テキサスタワー乱射事件のような凶悪犯罪に対処するためのSWAT部隊の創設が相次いでいた[6]。また1972年のミュンヘンオリンピック事件を契機として、大陸ヨーロッパでは西ドイツ国境警備隊のGSG-9やパリ警視庁のBRI-BACのように、単なる凶悪犯対処にとどまらず、対テロ作戦にも対応可能な法執行機関の部隊が発足した。これに対し、アングロサクソン諸国では対テロ作戦は軍が担当することになり、イギリスでは陸軍特殊空挺部隊(SAS)に対革命戦部隊(CRW)を編成し、1980年の駐英イラン大使館占拠事件でも出動した[7]。またアメリカ合衆国でも、SASに倣ってデルタフォースが発足した[8]。しかし軍事作戦では脅威を排除するために持てる限りの火力を行使することが当然とされるのに対し、法執行活動の場合、武器使用は最低限に抑えなければ後の捜査に支障を来すうえに裁判所でも指弾を受けかねないことから、ロサンゼルスオリンピックを控えた連邦捜査局(FBI)では、独自の対テロ作戦部隊として人質救出チーム(HRT)が編成された[9]。
日本における特殊部隊
自衛隊
空挺レンジャー課程
冷戦期
陸上自衛隊では、まず創設直後の1954年9月に調査学校を設置して[注 1]、旧陸軍中野学校の卒業生を教官として招聘するとともにアメリカ陸軍特殊部隊とも連携し、特殊作戦に関する研究に着手した。1956年、元F機関長である藤原陸将補が学校長に補されると、敵後方地域等で情報の獲得や遊撃活動等に任ずる幹部を育成する対心理情報課程(現在の心理戦防護課程)が開講されたが、この課程は当初、直截的に"SF課程"(Special Forces)と称されていた[11]。
これとは別に、正規戦での遊撃戦要員育成のため、1956年には、富士学校でレンジャー課程が開始された[12]。1958年にはエアボーン部隊として第1空挺団が編成されたが、こちらも精鋭部隊として、特殊作戦への投入も想定されていた[13]。また北部方面隊でもソビエト連邦軍の上陸に備えて遊撃戦の準備を進めており[注 2]、1961年には、まず倶知安駐屯地において北部方面総監部第三部に特別戦技訓練隊が設置され、1962年には名寄駐屯地に移駐し[12]、1971年には真駒内駐屯地で冬季戦技教育隊(冬戦教)と改称された[15]。
この他、海上自衛隊では第二次世界大戦に敷設された機雷や不発弾、海中廃棄火薬類に対する爆発物処理(EOD)を担当する水中処分員の育成を急いでいたが、当初、アメリカ海軍ではEOD課程に外国人留学生を受け入れていなかったことから、かわりに、1957年より、フロッグマンを養成するUDTra(Under Water Demolition Training)課程に留学生を派遣していた。このUDTra課程はNavy SEALsの選抜訓練の前身にあたるもので、極めて過酷であり、海自からの最初の留学生は訓練中に殉職している。その後、1964年よりEOD課程への留学生受け入れが開始されたことから、UDTra課程への派遣は行われなくなった[16]。
冷戦後
特殊作戦群(SFGp)
1995年に閣議決定された07大綱において、冷戦終結など国際環境の変化に対応して、防衛力の見直しが図られることとなった。13中期防に基づき、2002年には水陸両用作戦部隊として西部方面普通科連隊(WAiR)が[17]、そして2004年には陸自初の特殊部隊として特殊作戦群(SFGp)が編成された[18]。またこれらに先行する2001年には、能登半島沖不審船事件を契機として、海上自衛隊でも自衛艦隊の直轄下に特別警備隊(SBU)を編成している[19]。
2004年に制定された「特殊作戦隊員の範囲等に関する訓令」において、陸上自衛隊における「特殊作戦隊員」は、下記の4つと規定された[20]。
空挺基本訓練課程及び別に指定する特殊作戦業務の課程を修了し、かつ、陸上自衛隊の特殊作戦群に所属する陸上自衛官
空挺基本訓練課程を修了し、かつ、陸上自衛隊の特殊作戦群に所属する陸上自衛官のうち別に指定する者(前号に規定する者を除く。)
別に指定する水陸両用の課程及び別に指定するレンジャーの課程を修了し、かつ、陸上自衛隊の西部方面普通科連隊に所属する陸上自衛官(当該訓練課程を修了した隊員のみで編成される小隊の隊員のうち別に指定する者に限る。)
水陸両用課程を修了し、かつ、陸上自衛隊の西部方面普通科連隊に所属する陸上自衛官のうち別に指定する者(前号に規定する者を除く。)
ここで言及されている「当該訓練課程を修了した隊員のみで編成される小隊」は、「特殊作戦隊員の指定等について(通知)」において「西部方面普通科連隊の本部管理中隊の情報小隊又は普通科中隊の小銃小隊(B)」と記載されている[21]。
また2011年には、航空自衛隊でも、対ゲリラ作戦の研究および基地警備隊への教導を任務とする基地警備教導隊(BDDTS)が発足した[22]。
なお、西部方面普通科連隊は2018年に編成された水陸機動団の第1水陸機動連隊に改編されている。
警察
日本の警察では、警備部にテロ事件の対処を任務とする部隊が編成され、刑事部に誘拐事件や人質立てこもり事件など、凶悪事件の捜査を任務とする部署が設置されている。また一部の県警察では警備部と刑事部から人員を選抜し、合同部隊を編成している[23]。
警備部
警視庁機動隊の緊急時初動対応部隊(ERT)
1977年のダッカ日航機ハイジャック事件を契機として、警察庁は、秘密裏に警視庁と大阪府警察に対テロ特殊部隊の編成を下命し[24]、警視庁では第六機動隊特科中隊(SAP)、大阪府警察では第二機動隊零中隊として発足した。大阪府警察の部隊は1979年の三菱銀行人質事件で出動し犯人を射殺、また警視庁の部隊は1995年の全日空857便ハイジャック事件で突入する北海道警察部隊の支援にあたった。そして1996年、警察庁は特殊部隊の存在を公表するとともに、特殊部隊(SAT)として改編し、東京・大阪以外にも北海道警察、千葉県警察、神奈川県警察、愛知県警察、福岡県警察の各警備部にも発足することとなった。2005年には沖縄県警察にも編成されるとともに、各地の部隊も増強された[25]。
またSATを補完するテロ対処部隊として、各警察本部機動隊には銃器対策部隊、NBCテロ対応専門部隊、爆発物処理班が設置されている[26]。このうち銃器対策部隊は、上記の特科中隊・零中隊の創設に先駆けて、1968年の金嬉老事件を契機に警視庁や大阪府警察などに発足した特殊銃隊を前身としており、1996年に常設の部隊として増強改編された。埼玉県警察RATSのようにレンジャーに準じてラペリング降下などの突入能力を備えた部隊もあるほか、警視庁機動隊では、銃器対策部隊からの選抜によって緊急時初動対応部隊(ERT)を編成し、即応体制をとっている[27]。
刑事部
熊本県警察刑事部の人質立てこもり部隊
警視庁刑事部では、1963年の吉展ちゃん誘拐殺人事件での人質救出失敗を教訓として、1964年に特殊犯捜査係を設置した。これは捜査第一課のなかでも、誘拐や立てこもり事件、企業恐喝や業務上過失致死事件などを扱う部署であり、高度な科学知識および捜査技術に通暁した専任捜査官によって構成されていた。警察庁もこの施策に注目し、1981年3月までに全ての警察本部に設置された[28]。
このような所掌をもつことから、刑事としての捜査だけに留まらず、人質の身に危険が迫った場合の最終手段として、突入制圧も担当するようになった[29]。警視庁では、1992年に、捜査第一課の捜査官とともに、SATから選抜した人員を加えて、突入班を編成した。これはSAT隊員の射撃技術などを即戦力として期待した起用であった[30]。
近年では多くの警察本部で刑事部に突入班が編成されているが、名称はそれぞれ異なっており、警視庁では「SIT」、大阪府警察では「MAAT」、埼玉県警察では「STS」、神奈川県警察では「SIS」、千葉県警察では「ART」と呼ばれている。編成方法も警察本部により異なり、小規模な警察本部では、捜査第一課だけでなく、機動捜査隊や、更に機動隊員も加えて突入班を編成している場合もある[23]。
海上保安庁
海上保安庁では、海上テロ事案などに対処するため、1985年に関西国際空港海上警備隊(海警隊)、また1992年にはプルトニウム輸送船護衛のために警乗隊を発足させていた。そしてこれらを統合改編して、1996年に特殊警備隊(SST)が編成された。
エンディング曲
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グッズ
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韓三千1957 在 飲食男女 Youtube 的最佳貼文
一敲銅鑼,鼓鈸喧天,暮色沉沉的馬游塘村生猛了:金豬開陣,祝禱繚繞香燭,爐火熊熊蒸氣騰騰──村屋間空地搭竹棚張綵燈,筵開廿八席,熱辣辣葷素源源上桌來,觥籌交錯,賓主俱歡顏。
這是一場筵席包辦館「大來東南」主理的壽宴。食材爐灶、枱凳碗筷、侍應廚師統統到會來。從上世紀中葉起,大夥就像紅船戲班一樣鄉轉鄉,走過六七動盪、七八十年代經濟飛躍⋯⋯伙頭兵團今天髮稀了、背彎了,彈指間炒炸蒸燉,光芒依舊在。縱然行業日落江河,廉頗亦老矣,但這終究是他們的舞台,猶如大老倌踏出虎度門,必定傾力演出。
正月,是大來東南全年難得的忙碌時候,一個周日包辦了六七個筵席。人稱「倫叔」的老闆陳倫駐店調兵遣將:哪位師傅擅長哪些菜、走甚麼崗位、誰去煮日宴或晚宴甚至走兩場……他自詡為僱傭兵阿頭,「無僱傭兵,怎打成仗?我們有後生的,不是個個六十幾,八十幾也有,總之是耆英啦!耆英功夫夠,守門好,調味等等準確些。」倫叔八十歲了,依然精神矍鑠。
幾十年來他都行散工日薪制,有訂單就召集好兄弟埋班。這晚壽宴,他派出三個大師傅,四蒸兩炒六個爐頭,還有幫廚和雜工十三人。「我們包辦筵席,不可能跟酒樓一樣分工。」晚上十幾個樓面,日間已在油麻地店內劏魚剪蝦。
師傅也清晨六點多回店預備:需火候的燉湯、炸子雞上皮,以及每一個菜式的配搭得先做好。譬如「百寶鴨」,全鴨起骨,再釀入蓮子、銀杏、瑤柱、鹹蛋黃等超過八種材料,扣燜一小時,廿八席的鴨就花上好幾小時。筵席現場,師傅也「瓣瓣得」:砧板埋灶搬抬,隨時走位「執生」:上菜急起來也要掉下熱鑊去幫手排菜。「我們好似舊時打波,十上十落的陣形。」倫叔用荷蘭隊全能足球比喻。
包辦的承諾
藍田山上馬游塘村的壽宴,七點開席,午後雜工率先運來枱凳鋪設;師傅和食材工具在兩三點陸續抵達,起爐搭灶洗刷,肉食菜蔬調味料一一擺列開來。
五點多,鑼鼓響起,主家拜神;師傅開爐點火,首先熬煮糖水紅豆沙,而澆在大菜上的濃芡、炸油一一先推先熱待用;雜工披上白恤衫,變身侍應候命。準時七點,拜神金豬吃罷,冒着白煙好彩頭的「發財好市」啟動盛宴,主人賓客齊舉杯:「飲勝!」
大家酒酣耳熱之際,在爐邊起勁的師傅忽然停下來,翹首以待。原來主家要敬酒,樓面事前通報師傅歇一歇。「包辦筵席有一好處。酒樓一起菜就全部煮了出來。去到你府上就不是了:喂,師傅慢一點啦!遲幾個字再起菜啦!師傅就會停。」倫叔得意地說。
他強調,大夥臨時是主家的僕人,「也可以說是包辦的承諾,如果到時『我不喜歡做』,唔得!你幾大都做完那一晚。」像這天天氣不穩,主家搭的竹棚不能遮蓋廿八圍,要分頭二圍,大夥就分兩次煮食招呼,工時長了近一倍,酬金不變,也無怨言。
功夫,六十年前
這晚主家曾宏五兄弟為八十有一的母親擺壽。「我覺得在村搞到會很有氣氛。」曾宏說,原來四十多年前阿爺已跟東南結緣。跟冷餸翻熱的盆菜不同,筵席上每一道菜現煮現吃,那股熱辣辣給人驚喜連連:一條蒸魚上來,剛剛離骨,很嫩滑;熱炒燜煮,全是「小時候酒樓的味道」──沒複雜的化學調味,吃了不口渴。
賓主享用完鬆軟大壽包、濃甜紅豆沙,盡歡席散。師傅撤退,樓面收拾狼藉杯盤。時近午夜,大貨車盡吞爐具碗碟,消失於夜幕下;要不是賓主臉上的悅色酒氣,盛宴好像沒發生過。
倫叔說,筵席到會不是沒市場,飲食集團也設部門營辦,不過數獨立經營、既包辦「筵」(菜)又提供「席」(枱凳餐具)的筵席專家,九龍只怕剩下他這一家。而他,也入行超過半世紀了:1957年,十九歲的他由廣州來港做了一年錶行打雜,就投靠開包辦館的姑丈,從此走上包辦路。
「當時甚麼也不懂,何謂大雞三味?何謂四和菜三和菜?好烏龍。」知不足,學不倦。他晚上一有空就用舊報紙練字;看營業部怎樣寫菜單;入廚房偷師。後來他往外闖,包辦館、茶居,樓面廚房點心樣樣都做。「我們東南的事頭請人,席上揀菜薳,好挑剔,你不勤力不醒目他不睬你。」他先後入東南、大來兩間包辦館。兩店由甘日新和嚴志二人在1948年創立。1972年,兩位老闆退休打算結業,他於是和拍檔用盡十萬元積蓄頂手,把兩個字號合併成為「大來東南」。
筵有大小 無分階層
倫叔二十多歲就在包辦館當上大掌櫃。他回憶,行業在六七暴動前最興旺。大來經常到富貴人家的花園別墅做宴;主家一來喜歡包辦隨時候命,二來家宴私隱度高。那時,工廠在大時大節和廠慶也經常擺酒,「譬如唯一水壺廠、鄧芬記。有錢佬聚居的又一村、中半山、九龍塘,那時候很多……」倫叔不願提豪客名字叨光,只漏了嘴:「舊時總華探長是常客,現任不少高官警司也食過我們的餸菜。」
從前,包辦館街街也有,單是廟街已四五間,包括大來和東南。店本身也擺到三四圍,「那時無冷氣,太太們喜歡高髻頭,牛角扇吹到髻都歪了。」倫叔忍不住笑起來。六七年暴動後,有錢人紛紛離港暫避,兩店生意跌了八九成。及至七十年代,酒樓愈開愈多,「人家當然想嘆冷氣、更好的招呼和環境。」包辦筵席漸漸式微。
為了拓展生意,倫叔二十年前也做起盆菜來;沙士前甚至也做蛇宴。現在筵席和盆菜各佔一半。盆菜有幾百元一圍;筵席可達萬多元一席,但不多;千多元最平常。「貴婦狗生日請客仍然有;隱形富豪做生日、擺滿月,入伙一定要光顧我們啦!旺一下新屋。」他做得最多的是社團和大學千人宴。正月時,露宿者之家也訂了五席給附近油麻地、深水埗的街友。蒜香基圍蝦、菜膽百寶鴨、五柳炸石斑……他和師傅一視同仁用心炮製,佳餚趁熱派人連同摺枱碗筷用手推車送過去,服務周到無分階層。
老友一齊打天下
「我做了幾廿年,後生做到老了。」倫叔笑咪咪,總是腳踏白水鞋,手握一罐生力啤。接洽生意、買料、訂貨他一腳踢;廚房告急他就衝入廚房,樓面不行幫樓面。
「現在無人願意(接手)做這樣辛苦的事了。」大來東南到今天,打理人只剩他一個。人家退休坐公園,他很抗拒,有事做就開心,「回來認識多些朋友,老中青也認識一些,多好呀!同時跟社會不脫節。」
辦公枱上,毛筆墨盒放在手邊,他十年如一日為客人擬寫菜單。菜單值多少錢,他就買同等的貨給客人。「你不可以隨便一種貨給主人家,否則如何運作幾十年呀?蠔豉來說,客人需要大隻的金蠔或最大的沙井蠔,二百多元一斤,我需要買那些。小一點百多元甚至幾十元一斤,不同嘛!」
人隨行業走到日暮,倫叔一點不傷感。目睹同行一間間消失,唯獨大來東南撐了下來,他淡淡然說:「無人光顧,你就要結業。我們幸好有班老友記合作,圍威喂,打天下!」倫叔呷一口他形容為「生命之源」的啤酒,清涼、回甘。
舉重若輕 大師傅
謝龍師傅(67歲)
入行四十多年,去過上海、台灣做大廚。這日他中午和七十多歲的Man叔在上水煮了六圍,傍晚再來馬游塘村拍檔入行六十年的鄭成師傅炮製廿八席。一年之中,只年尾正月較忙,「如果靠包辦筵席搵食,真是無得食。」他在大來做散工三十多年,倫叔叫到,義不容辭。「當做義工舒筋活絡,是一種樂趣,大家老友傾吓偈開心點。」做廚師,謝師傅笑言:「客人讚好,證明自己煮得好。」
黃錫師傅(66歲)
曾在港島有名的包辦館歐燦記隨父做廚,二十多年前歐燦記結業,轉來大來。「上門到會好像酒樓,只是整個廚房搬過去,沒有搭棚的就在露天煮。」這天,他清晨六點多就返油麻地店鋪廚房張羅,蒸煮了七八成,現場來做兩三成。席散,其他師傅撤退了,他留下來搬搬抬抬,收拾物資上車,回店卸貨已過午夜。「做慣了, 沒甚麼問題。」錫師傅總是和顏悅色。
撰文:韓潔瑤
攝影:關永浩、葉天榮
大來東南筵席
地址:油麻地廣東道844號永發樓地鋪
電話:2780 3145
韓三千1957 在 李基銘漢聲廣播電台-節目主持人-影音頻道 Youtube 的精選貼文
本集主題:世界軍艦的故事
本次將帶著聽眾朋友走出錄音室、第二次到長榮海運博物館,由館方解說志工威廉,威廉老師曾經是海軍退役軍官,所以對軍艦和世界戰役就有一定了解與認識,退休後又長期在長榮海運博物館擔任解說志工,所以談起各種代表性的戰役和影嚮戰爭結果的軍艦如數家珍,深入淺出。
1. 緬因號/美國戰鬥艦 USS Marine/Battleship
1898年奉派至哈瓦那保護美國僑民, 在當地發生爆炸沉沒,艦上260餘名官兵全數喪生,成為美西戰爭的導火線, 1889年下水,1895年服役, 1898年沉沒
2. 鐵爵號HMS Iron Duke/The Dreadnaught battleship
為英國無畏型戰鬥艦,以英國將威靈頓的稱號命名,1916年日德蘭海戰中因擔任大洋艦隊司令約翰.傑利科的旗艦而聲名大噪,1931年退役移做訓練鑑, 1939年因遭德軍烘炸而損壞
3. 大和號Yamato/日本大和級戰鬥艦
是二次世界大戰時日本海軍「大艦巨砲主義」的具體象徵,1940建造完成, 1941服役, 為當時世界上最大的戰艦,因而成為英美聯軍鎖定攻擊的目標, 1945年4月6日, 已成為強弩之末的日軍,發動「菊水作戰」派大和號等船艦迎戰優勢的美國艦隊, 次日, 大和號在沖繩附近遭到380架美軍戰機的輪番攻擊而壯烈成仁, 殘骸於1985年被尋獲 (它是第一個啟用球形船頭取代尖形船頭,來增加速度彌補船隻尺寸)
4. 亞利桑那號 Kidd 船長/美國超無畏型戰鬥艦 USS Arizona/Super Dreadnaught
Battleship
1931年進行現代化改裝,1941年不12月7日的珍珠港事變中受到重創, 全艦共1000餘名官兵陣亡,目前仍沉在珍珠港的海底,並建成紀念碑供人參觀憑弔
1915年下水, 1916年服役, 1941年12月在珍珠港被擊沉(太平洋戰爭的開始)
5. 密蘇里號/戰鬥艦 USS Missouri(BB-63)
曾參與第二次世界大戰、韓戰、波斯灣戰爭等, 共獲得11個戰鬥勳章, 1945年9月2日, 日本投降的儀式在此艦上舉行, 日方代表簽署了無條件投降的文件, 正式結束第二次世界大戰 (太平洋戰爭的結束)
6. 俾斯麥號/德國戰鬥艦 Bismarck/Battleship
(不能打到魚雷機,德國對外號稱是自沉而非被擊沉), 於 1939年下水,1940服役, 不但噸位大,航速高,還配備強大火力, 儼然是一座堅固的海上堡壘, 為各國海軍所望塵莫及, 但在1941年5月27日與英國海軍艦隊激戰中遭擊沉, 1941年5月27日被擊沉, 1989年尋獲
7. 虎德號Hood Battlecruiser/英國戰鬥巡洋艦
虎德號建造完成時為當時最大, 最快速且外型狀觀的主力艦, 二次大戰期間,與威爾斯王子號一同搜索德國精銳戰艦俾斯麥號, 雙方戰艦在1941年5月24日相遇, 爆發激烈戰鬥, 虎德號遭到擊沉, 全艦只有三名生還者, 英國舉國哀悼
8. 紫晶號 HMS Amethyst
建造於1942-1943年間, 英國巡防艦,配備有反潛及防空武力,主要的任務為護航, 在國共內戰期間曾值勤於中國,1949年, 當紫晶號運送補給品至位於南京的英國大使館之時, 被中共的重砲兵部隊砲擊中彈而擱淺, 中英雙方交涉幾個月後, 紫晶號才趁機逃脫, 結束這場衝突事件 (1942年下水,1957年解體)
9. 埃塞克斯號/航空母艦 USS Essex (CV9)
1941下,1942服役,1969除役, 1973拆解, 1943年5月開始投入太平洋戰爭,於1944年馬里亞納海戰和同年10月的雷伊泰灣海戰創戰功, 戰後因功榮獲「總統單位嘉獎」和13枚戰役銅星紀念章
10. 高雄號Takao/Heavy cruiser Takao class/重巡洋艦高雄級
為日本第二次世界大戰的「一等巡洋艦艦型」,高雄號為該型船艦的第一號艦,以京都的高雄山命名,其龐大的艦橋宛如日本古城般雄踞海上
11. 千鳥號 HMS Plover,也音譯為蒲樂福號
是英國駐香港的皇家海軍孔雀級巡邏艇, 1983年開始服役, 擔任維持海上治安及救護工作, 1997因香港回歸而轉售予菲律賓海軍
12. 伊號第四零零潛水艦 Japanese I-400 Submarine
I-400型潛水艇是日本帝國海軍所建造,俗稱「潛水航空母艦」, 艇內搭載2架(後改為3架)特殊水上攻擊機「晴嵐」, 目的是想利用潛水艦接近美國巴拿馬運河作奇襲攻擊, 但在發動攻擊前夕時, 日本已投降, 1946年於夏威夷近海被當做實艦標的擊沉處分(1944下水,1945除役,1946自沉)
13. 悍神號HMS Termagant/Talisman class destroyer
英國護身符級驅逐艦,屬大型重武裝驅逐艦,曾參加過日德蘭之役
H代表 he or her, M代表 majority 英國皇家, S代表 ship
14. 鱘魚號HMS Sturgeon/A class torpedo boat destroyer
英國A級魚雷艇驅逐艦, 是英國最早期的魚雷艇驅逐艦, 1894年下水,是A級驅逐艦中第一艘下水的,1912年解體
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